神社仏閣・藤沢市−1
遊行寺(清浄光寺) | |
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時宗総本山の遊行寺(藤沢山無量光院清浄光寺)。時宗開祖一遍上人から第4代、呑海上人が創始。黒門からいろは坂(48段)をこえると広い本堂前に出ます。男子校が併設されているため学生の姿を多く見かけます。 | 正面が本堂。左手前に大銀杏。右奥には俣野大権現の祠があります。 |
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時宗といえばやはり一遍上人。鎌倉の光触寺の像ほどのインパクトはありません。周囲に和んでいました。 | 本堂の中には入れません。入り口お賽銭箱の前で合掌して「南無阿弥陀仏」を唱えます。ご本尊はもちろん、阿弥陀如来。 |
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銅鐘がつられている鐘楼。撞くことは出来ません。 鐘楼下の道をはさんで寺務所や藤沢めだかの繁殖池がある庭園があります。ハクモクレンが満開できれいでした。道の奥へ進むと歴代上人のお墓、宇賀神のほこらなどがあります。今回は見に行かなかったのですが、板割浅太郎や照手姫のお墓なども境内やそのまわりにあります。 |
気になったのは、お寺の紋。「隅きり角(折敷)に三の字」って、大三島の大山祗神社と同じような。一遍上人の実家、河野氏の紋ですが、三の形が縮み(揺り)という波打った三の場合もあります。どうでもいいけど揺り三ならぽちの実家の紋と同じです。(たぶん、河野氏につながる越智氏などの系統と思われ)。 |
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日枝神社 | |
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藤沢の渡内にある日枝神社。祭神は大山咋命。村岡城の守護神として、日吉山王大権現を勧請したとされています。その後、平良文を合祀。境内には相州七福神の弁財天がまつられています。といっても庭にぽつんとおかれているだけの寂しい様子でした。でも渡内のお祭りでの御神輿などはにぎやかに行われるようです。 | 現在まわりは宅地工事中で、写真などで見た大きな木々も案内板も表示も何も無く、お堂と鳥居と境内に像があるだけです。それにしても参道脇ににょっきり立つ2本の電柱はどうにかならないものでしょうかねぇ… |
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二伝寺 | |
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藤沢の渡内、日枝神社からは前の道路沿いすぐにある二伝寺です。平良文とその子(諸説あります)・忠通・忠光の墓所が境内にあります。 | 戒法山宝国院二伝寺・浄土宗、木造寄木造りの聖観音坐像を安置。 |
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本堂向かって左にある坂道をのぼると左手の山に碑があります。村岡五郎平良文公墓前碑と題されています。ここには、子細不詳なるも良文公67歳病没、2代忠光公、3代忠通公の城主3代の墳墓と里人の口碑に伝えられているとありました。藤沢の宮前にある御霊神社も良文関連のものだとこの碑文で知りました。今度行きたい。 | 碑の横から山に伸びる道をのぼると木々に囲まれて楕円に 開かれた地に出ます。3つのお墓は別々に離れて存在し、良文公の墓を中心に向きあっていました。両側を従えるように林を背にして真ん中に位置するのが良文公の塚です。他は五輪塔ですが、こちらは宝篋印塔と立派です。 |
山をのぼってすぐにあるのが忠光公の塚。 | 登ってきた(楕円の)1番奥にあるのが忠通公の塚。 |
村岡も渡内も(この辺りは割と住所表示が入り組んでます)鎌倉〜戦国時代、よく戦場になった地域です。二伝寺で本堂裏手に切り開かれた平地がありますが、これは戦国時代の二伝寺砦跡だそうです。二伝寺砦は大船の玉縄城(北条早雲の子息の城)の支城だったとか。ちなみに玉縄城は上杉謙信が陥せず、武田信玄が避けた守りの堅い城です。 藤沢市渡内3-13-1 駐車場あり(少し) 2008年6月10日(火) |
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花應院 | |
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曹洞宗・西嶺山花應院。県道403号線の境川を渡る橋の近くの信号から別の道に入った、飯田牧場の前にある、小栗判官と照手姫の縁起のお寺です。境内には六地蔵を含め、お地蔵さまが多くいらっしゃします。 | 本堂です。閉まっていて中を見ることはできません。 |
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説明を見る限りでは、お前立の石造閻魔大王坐像は拝むことができるようです。 | こちらの花應院には、小栗判官照手姫縁起絵巻と地獄変相十王図が保存されており、例年1月・8月の2回、閻魔祭りが行われ、時代絵巻のご開帳と共に、小栗判官と照手姫の奇想天外な物語と、地獄の様子が花應院と西俣野史跡保存会により絵解きされるそうです。 |
藤沢市西俣野866 駐車場なし 2009年11月1日 |